令和5年7月27日(木)色から視覚的要素を除くと、のこりは何だろう

染色を始めてからもうそろそろ5年になる、絞りを自分で染めるなら天然染料と化学染料のどちらがいいのかというのを、作りながら使いながら、その色の違いについてぐずぐずと考えてきた。

作るものが何なのかによって用途を考え、同じ染料でも選んだ布の素材によって染まる色が変わるから、結局どちらがいいのかは一概に言えない。言えないのかい。いや、言えないのだけども、天然染料と化学染料は私が考えるよりももっと、ずっと根本的な違いがあるような気がしている。まだまだふわふわした思考なのでこうやって書いても伝わるかわからないんだけど、布に染めた色にはもっと様々な意味があって「昔の染色から、視覚的な情報を抜き出してきたのが現代の化学染料による染色なのではないか」と思っている。昔の染色と今の染色はなんか知らんけど違う。昔の小説家の本を現代版の文庫で読むのと、昭和時代の本で読むのが違うような違いかなと思う。仮名遣いが違ったり紙の質や組版が違ったり。そういう文字情報以外の当時の要素がざっくりなくなっていることがあるがそれと似てはいないか。

確かに天然染料は面白いから染めていきたいのだけど、天然染料を使えば昔のような染色になるという考えでは、土台のない建築みたいに成立しないとだけは思う。

そこで、色から視覚的情報を抜き出したあとにいったい何が残るのかを、ちょっと考えてみようと思う。『萬葉草木染め』という村上道太郎の本を3年前くらいから読んでいて、平易な文章だけれどもところどころ難しくて、わりと最近面白く思えてきた。それを次回紹介したい。加えて、今年買った広辞苑で色という字のついた言葉を引きながら(「色」がつく言葉の掲載数はけっこう多い)もう少し色とは何かについて書きたい。