「伝統」っていったい何なのだろう???ということがしばらく前になぜかとても気になっていました。なんだか大層な話っぽすぎてどうしようかな〜という気もしますが、自分が思っていたことと、それから、見つけた言葉を今日は書いてみます。
「絞り染めですか。じゃあ、伝統工芸をやってるんですね」と言われたことがあって、一瞬言葉に詰まりました。
絞り染めのように古い手法のものをつくっていると「伝統を受け継ぐ」とか「伝統を絶やさないように」とか考えている人だというイメージを持たれるかもしれません。仮に伝統というものを受け継ぎたいとしても、私の場合、具体的に何をしたら受け継げるのでしょうか。技法を受け継ぐというなら何とか受け継ぐことはできると思うけれど、伝統を受け継ぐとはどういうことなのかわかりません。
それを、わからなければいけないのだろうか?という引っ掛かりを覚えてしまったというか…。その頃から「伝統」という言葉が気になるようになりました。
たとえばインドみたいに職業が宗教カーストで決まっていて、ある職業の家族が違う職業に転職できないような社会に生きていたとしたら、守るものがはっきりしているのでしょうか。詳しくわかりませんが日本にいる場合とはだいぶ違うだろうな、とは思います。
ある美術館の館長をしている、工芸の世界で有名な人が書いた「伝統とはなにか」をテーマにした本も読んでみましたが、肝心なところが私にはわかりませんでした。(「伝統」と「伝統工芸」は別物のようだ、ということはなんとなく感じました)
いよいよ「伝統」という言葉の取り扱いがわからなくてこわいので、この絞りブログではなるべく「伝統」という言葉を使うまいと思いました。
それでも、伝統とは何なのか?というモヤモヤは消えませんでした。
私は工芸についての文章を読もうと思ったとき、白洲正子をチェックすることが多いです。白洲正子の死後に雑誌の特集で書かれたエッセイのなかに、白洲正子の伝統論、という感じのする一節を見つけました。「伝統」の説明として一番良いのではと感じました。非常にスッキリしたので引用しておきます。
『織物は語る』の中で、白洲さんが〈…(略)…伝統は、生かすものではなく、生きるものだからである。〉と記していて、いたく感動した。それもふまえて自分自身では、伝統は血の中にあるものを素直に表現するもの、無意識に表われるものと心に言い聞かせている。
伝統を生かす(他動詞)じゃなくて、伝統は生きる(自動詞)。
絞り染めの長い歴史のなかで取りつく場所や人を変えながら「伝統が生きてきた」のだというイメージを、上の文章を読んでから持てるようになりました。気持ちの風通しが良くなりました。
これはひとつのとらえ方にすぎません。伝統という言葉は結局、言葉である以上(私を含め)それぞれの人が好きに扱うし、さまざまな文脈で使われるものです。
この白洲正子の説明を覚えておいて、じゃあ自分はどうしていこうかな、とゆっくり考えていきたいですね。今回の話、皆さんはどうお感じになるでしょうか?
それでは。今回もありがとうございました。