令和5年5月27日(土)しぼりには「足」があるということ

あし。足。あなたはこの言葉から何を思い浮かべますか。

絞り染めには「足」があるということを今年知りました。正確にいうと絞り染めに「足」と呼ばれる要素があるということを知った、ということなんですが。それを今日は説明してみますね。

私は絞り染めで、布に模様を染めています。線や面の輪郭部分をつくったとき、下描き段階では線だったところが、染めると線でなくて白と地色のグラデーションになります。絵を学んだとき、自然界を含む現実世界には線というものは存在しないと教わりましたが、紙にペンで線をひいたときのような明確な線が、絞り染めでは出ません。だから優しい風合いが生まれます。

さいしょに絞りをやろうと思ったとき、その部分絞りの輪郭部分の感じがとても興味深かったです。縫い絞る力の大きさでも、染液の温度の具合でも、その部分の染まり方が変わってしまうと感じていてむずかしいような面白いような気持ちに毎回包まれています。

なぜ、線が線でなくグラデーションになるかというと、絞り染めでは模様を染め分けるときに染まらない部分=防染部分をつくります。染色をする前に布を水につけておくのですが、水を吸収する布と、色の溶けた染液がぶつかり合い、縫い糸で圧力を受けた布の部分で柔らかい境界がつくられます。水の力で模様ができるとも言えるような仕掛けで染まるから、グラデーションのような曖昧な境界線になるのだといえばいいでしょうか。ありふれたもののようで、水とは不思議なものです。水は染色をはじめ、さまざまな不思議な反応がおこなわれる場、ものの生まれる場所です。そういえば人間も、生まれる前は水の中にいます。

工芸について造詣が深く、たくさんの著作をのこしている白洲正子という人がいます。白洲正子が亡くなったときに出版されたムック本に、絞り染め作家古澤万千子の文が載っているのを見つけました。『日本のたくみ』というタイトルの白洲正子の随筆集で古澤万千子の染色が取り上げられており、白洲正子があまりに褒めているので以前から随分気になっていたのです。ああ、誠実な綺麗な文を書くひとなのだなと思いましたが、その中で、白洲正子とのやり取り部分に目をみはりました。

古澤「絞り染の美しさの決め手は何でしょうか」

白洲「やっぱり絞りの足です」

古澤「美しい絞りの足を作るのに手かげんする事は出来ますか」

白洲「ほとんど手かげんは出来ません。浸透する水には何を持ってしても手かげんは出来ません。染料を選び浸して、あとはおまかせするだけです」

古澤「では、やきものの窯変と同じようなことでしょうか」

白洲「ほんとうにそうかもしれません、そして、その白場と色の場は、シテとツレみたいでしょ」

芸術新潮1999年12月号p23〜「一枝の花」古澤万千子 より引用

※引用中の「シテとツレ」は能の用語。主役と助演役を表す。白洲正子は幼少に能を習い始め、14歳から舞台に立っている。

 

私が説明するとしたら「絞り染めの模様の、白と色の境界線部分」と言っていたポイントが、たったひと文字の「足」という言葉で呼ばれていました。

そして、そここそが絞り染めのいちばんの魅力である、ということが2人の思い出とともに書かれていたのです。

何だかすごく嬉しかったのと、自分だけで絞りの魅力を喜んでいたときの、純粋な遊び感覚にさよならしたような苦い気持ちが混ざりました。なにかを知るということはそういう、シャボン玉を割るような経験なのかもしれません。「知ってうれしい」という思いと「知らないからできる遊び」の間を、いつまでもウロウロしながら進んでゆけたらいいですね。