なぜ草木染めの色に親しみを覚えるのか【後編】植物の生命とは?

こんにちは。前回の記事の続きです。
shiborizomeko.hateblo.jp


村上道太郎(草木染め作家・著述家)の「色は生命である」という言葉は正直あまりピンときていなかったし、
他にも志村ふくみ(染織家・著述家)の「植物の命と自分の命が合わさる」と表現しているのも、
「とてもそう思う」と思うほどには、まだまだ実感できるようなことではありません。

だけど「たしかにそうなのかも知れないな」と思うことは増えました。


天然染料の染色をしていくと、不思議な経験をします。
染料を煮出して、絞りの布を染めて、そして寝かせておく。
そうすると、いつの間にか色が鮮やかになったり、深くなっていることがあります。
化学染料でこれまでそういうことはありません。
使っている化学染料はどの色相も洗濯や日照に強く色が長持ちするのですが、天然染料のような不規則な変化は見受けられません。

去年の秋にイチョウの葉を刻んで煮だしたら、黄金色の染液がとれました。
さらに煮出して濃くなるかと思えば、少し目を離すと鍋の中は茶色い液体に変わってしまいました。
ちょっとがっかりしながら染めるとやはり濃い目のベージュのような色になりました。
それも悪い色ではないのですがイチョウらしい色にならなかったので「煮出し過ぎた…」と反省して、
しょんぼりと布を仕舞っておきました。
ですが、しばらく日数が経ったときに見返すと、布から茶味が抜け優しいイエローに変っていました。

何故?
どうしてそういうことが起きるのか。
本当に不思議になります。


この文章を書いている私は生きています。
そして読んでくださる人も生きています。
私たちは生きているという点で共通しています。
だから、人に対して親しみを感じることができるのだと思います。

今回、「草木染めの色に親しみを感じる理由」について考えながら書いていますが、
仮に、諸先輩の仰るように色が生きているのだとしたら?

その問いの答えとして理論的に繋がります。
「草木染めの色は生きているから、生きている私たちは草木染めの色に親しみを感じる」ということになります。


人同士の「私たちは生きている」ということと、人と色がどちらも「生きている」ということには、もちろん差異があります。
植物(一部動物性のものもある)を切り刻んで煮出すわけですから。
私たちは切り刻まれたら生きられません。

植物を考えてみると、タネは土や水から物理的にいったん離れても、あとで植えればまた、その植物が育ちます。
根っこの一部が土に残っているだけで再生する強い植物もたくさんあります。
花束をもらってお家に帰り、花瓶の水に挿せば生き生きしてきて、蕾が開き新たな花が咲きます。

植物には死という概念がないような気がしてきます。


私は近くに山がある環境で暮らしています。
私の部屋の戸棚にある草木染めの色材は、近くに土があり川があるという環境をなんとなく感じていて、
生命として再出発することを予測しているのではないか?
そんなことを考えたりもするようになりました。

科学的根拠は、ありません。
普段、科学的に染色を考えることは大事だと思い、自分なりに勉強しています。

しかし、科学的根拠のあることばかりで考えると説明がつかないのが草木染なのかもしれません。

そういえば繊維の綿や麻ももともとは植物なので、
例え化学染料で染めていても植物の生命は死なずに生きているのでは、、、。

こうなると何を軸に考えていけばいいのか、もう全然わかりません。笑

軸足フラフラのまま、もう少し染めて行きたいと思います。



2年ほど寝かせた草木染め(茜の根で染めた)ミニハンカチです
※オリジナル絞り模様「庭の花」
※技法:平縫い巻き上げ絞り 鹿の子絞り


それでは、また次回。