令和5年6月9日(金)絞りをどんな色に染めるか/春の花の低音

この頃、絞りを染める色をどんな感じで決めているのか?ということについて書いてみよう。

この辺もすっかり初夏に染まった。紫陽花の蕾が次々と開くのを子供を連れて歩きながら眺めている。今年の真冬頃、絞りをどんな色に染めるのか思いつこうとして、うっかり「色とは何か」について迷いこんでしまい光・眼球・色覚のメカニズムなどNewtonやブルーバックスなどの解りやすい本を買って時々読んだ。わかったことは、色彩とは物質ではない。光があってこそ成立する・ヒトの目に見える「現象」である。そうだとすれば、あなたと私では同じ布でもちょっと違う色に見えるのではないかと不安になった。特にネット上で布の色を見せ合うときなど、何によってその画像を見るか、つまり各々の所持するデバイスの違いまでその色に影響するので「やっぱり実物を同じ空間で、同じ眼球と脳で見るしかないのか。それは特別な場合を除いては、たいてい無理なのでは?」という極端な考えに陥った。後で考えてみれば、冬は色彩があまりなくて、雪の白からグレーの階調の中で生きているから、そもそも色について考えるタイミングとして良くなかった。愚かな冬。

春になったらしめたもので、黄色い水仙あたりを皮切りに色とりどりのチューリップやパンジーが眩しくなった。私は赤やピンクや黄色という花の色が先天的に苦手で、幼児の頃から白い花が1番綺麗だと思ってきた。白い花の、蕾や葉や茎の緑色との相性は他のどんな色よりずば抜けて良く、とくに花びらと茎の結合部分の、緑がかった白の清らかな気持ちよさを受け取るのは最高だと思っていた。2歳の子供にそういう発想は欠片もないらしい。花が好きな子供が「まっま!みてぃえ(見て)!はンな(花)!ぴんく!」と指さしながら叫ぶのを来る日も来る日もハイハイと聞いているうち、ピンクも赤も花はみな心から綺麗だと思えてくる。新しい眼に影響されている。

『歴史とは何か』(E・H・カー著)という定番の本の中で、山を例にとり歴史の客観性について書かれたくだりがあって、こんな内容である。見る角度が違うと山の形が違って見えるからといって、もともと山は客観的に形のないものだとか、無限の形があるものであるとかいうことにはならない。したがって歴史も、見方によって変わって見えたとしても、客観的な歴史的真理が存在しないということにはならない。どの説も同じようなものだという理論になってしまうのは誤りである……というもの。私が色について冬に思ったことが、なんだかこれと似ているような気がして、はっとして栞を挟んだ。

ひとくちに色といってもその居場所は様々で、主観的な色と客観的な色があると思う。染めたい色を頭で考えているうちはどうしても主観的にならざるを得ないが、染めるという段階では現実に存在させるのだから主観から出ていく必要がある。主観が大事でないというわけではないが、染色は少なくとも片足を客観性のほうへ突っ込む行為である。手でつかむことのできない色を、昔から人間は名前をつけたり分類したり数値で管理しようとしたりしてきた。色に客観性を与える作業の積み重ねと言えると思う。それを鵜呑みにするのも違うし、かといって現代においてその膨大な蓄積を染色の下地に使わないのは不可能だし、わざと使わないようにするというのも、どうも不自然な感じがある。

そういう、頭だけで捏ね回すような話はこれくらいにする。今年の3月〜5月、リアルに感覚として気付いたのは春の花にも、音楽でいえばベースのような低音的な色があるということだ。最も眩しい黄色の隣に青紫の花があったりする。その2つの色はお互いの色を変えたりはしなくても、花たちを見る客観的な眼がその補色関係のとりあわせを美しいと感じる。葡萄風信子ムスカリ)の色は春の黄みのつよい光線をうけてもなお、黄みのない青紫だった。黄色い光を完全に吸収しているのだと思う。紫寄りの青にと思って染めた布を春の光の中にもっていくと紫味が消えてしまった。

それならもう少し青と紫の染料を混ぜる比率を紫勝ちにしようかな、と、そんなふうに花の色を参考にしている。自然光、室内光、時間帯でかわりゆく2つのミックス光、いろんな光源の下に染めた色を置きながら次の染め色を決めていく。